当然映像はモノクロで、キャストは初期の東宝俳優陣の中でもマイナーな人物ばかり。知名度があるのは唯一、平田明彦のみだが、それも「ゴジラ」の芹沢博士と同じような役柄で、怪獣を倒す新型火薬を提供する博士役である。
この作品の白眉はオープニングであるが、見どころはそこだけ。本編は正直眠気を誘うだけでゴジラより後発という強みもなければ、設定の妙も活かしきれてないのが残念。
合唱T〜合唱U・・・大怪獣バラン〜キングコング対ゴジラ
合唱Tがバランのタイトル曲。
あらすじ
東北地方、北上川上流の秘境でシベリア地方にしかいないはずのアカボシウスバシロチョウが発見された。ただちに杉本生物研究所の所員2人が調査に向かったが、原因不明の怪死を遂げる。杉本博士の助手の魚崎、犠牲になった所員の妹で記者の由利子、カメラマンの堀口の3人は真相を解明すべく現地へ向かい、外部から隔絶された排他的で独自の神を崇めている岩屋村の人々と出会う。突如、彼等の前に湖から眠りを覚まされたバランが出現し、集落を蹂躙。直ちに自衛隊が出動して攻撃を加えたが、バランは攻撃をものともせず、それどころか手足から皮膜を広げて飛び去ってしまう。その後、銚子沖に現れたバランは東京湾から羽田空港に上陸。都心への侵攻を阻止すべく、自衛隊が羽田空港に布陣した。果たして人類はバランを倒せるのだろうか?
これは可哀想な話なのである。
もともとバランは東北の山村、岩屋部落にただひっそりと棲んでいるだけだった。その眠りを醒したのはほかでもない人類であるのに、暴れるバランを撃滅すべく攻撃。住処から追い出すも海に逃げたバランが上陸してはかなわんと、海自も動員して殲滅作戦を展開。しかし良く見ていると分かるのだが、バランが人間を襲うのはバランの聖域を犯した場合のみで、わざわざ都会に下りて破壊したりはしていないのである。
バランが生息していた村落には近代文明が入っておらず、村人は先祖からの言い伝えを守り、山奥に棲む「婆羅陀魏山神(バラダギ様)」を祀っていた。このバラダギという言葉の響きは創作であるが、東北に見られる民俗信仰で有名な神である「荒覇吐(アラハバキ)」と響きの上で不思議な符号を感じさせる。
実際のところ、バランの破壊能力は怪獣王ゴジラのそれに及ばない。アラハバキの語源に「荒ぶる神」という要素があると仮定した場合、その名を冠すべきはゴジラなのだが、ゴジラが原爆によって突然変異した、つまり人類の愚挙によって誕生した怪獣であるとすると、恐竜の末裔であるバランはより純粋に地球の自然を体現した存在であるといえなくもない。精霊存在としての怪獣と言い換えることもでき、そこに上記のバラダギとアラハバキの符号の謎があると思う。
この映画の主人公ともいうべき魚崎という男性が、正直なところ利口な人間ではない。自分の主義主張が常に正しいと信じ、後先考えず行動する。山村でバランの鳴き声を聞いたのに、婆羅陀魏様など迷信だ、こんな時代にそんなものは存在しない、どうか皆さんも畏れずに先に進みましょう、と禁断の地へ足を踏み込む。村人もはじめ拒んでいたのに、唆されて大勢でバランの眠りを醒す結果となった。なのに魚崎はバランの姿を認めても自分の意見の誤りを認めぬまま、バランを都会に出してはならない、危険だから倒さねばならない、と勝手な解釈と持論で話を進めてしまう。防衛庁が岩屋部落へ出動しバラン撃退を試みるが、部落は半崩壊し、バランも逃がしてしまう。部落がその後どうなったのかも描かれない。
本編を見て思うのは、
「何もしなきゃ良いのに」
この一言に尽きる。呆れてしまうくらいお粗末なシナリオである。
現代文明を振りかざした都会の人間が、土着の文化や思想を必要もなく破壊し、自然や神への信仰や畏怖の念なき故に自然の怒りを買う。その結果起きた災禍をバランという自然存在の責任に転嫁して自己を正当化する。その姿がおぞましい。バランも人間と同じように、ただ生きていただけなのだ。
しかるに「大怪獣バラン」はバランではなく、人間という利己的生命が暴れまくる怪獣映画なのである。
そういった意味では成功であるし、土地土地の神とは怪獣のことなのではないか、現代日本の秘境にもそういった謎が潜んでいるのではないかというプロットを扱った点は評価すべきだと思う。
そこを昇華しきれず、単なるディザスター・パニックになってしまったのは勧善懲悪を求める当時の映画界としては当然かも知れないけれど、結果、腑に落ちない、後味の悪い作品となったのは否めない。残念。
バカな文:壬生映
「しかし、僕の手でオキシジェン・デストロイヤーを使うのはこれ一回きりだ。」
人気ブログランキングへ1票たのんます!
■パワーストーンで嫌なあいつをフルボッコなのだ
真正黒魔術の世界へ―悪魔聖品ラインナップはこちら


カタログ請求はコチラ!
【Dyonメンバーのダラダラ噺の最新記事】









